松本城は今から約500年ほど前の1504年頃、小笠原長時により深志城として建てられました(この時点ではまだ現在のようなお城ではありませんでした。)、1548年、甲州の武田晴信(信玄)が塩尻峠の合戦で長時に勝利し村井城を築城その後、埴原城(はいばらじょう)を陥落。そして長時は自落、開城に追い込まれ、同年深志城は武田氏の領地になりました。その後長時の残党狩りや有名な川中島の合戦などで重要な拠点として活躍しました。武田氏滅亡後は一時木曽義昌の領地となったが信長の死により、小笠原貞慶(長時の子)の領地になり、地名を深志から松本に改名し松本城になりました。その後貞慶は徳川家康に帰属し家康が関東に移封となると貞慶は下総古河城に移り、松本城は家康の重臣石川数正が城主となり、子の康長により1593年、現在の天守閣が建てられました。1613年、康長が大久保長安事件に連座して改易されると、下総古河城より小笠原秀政が再び城主に任じられたが、1615年、「大坂夏の陣」で大野治長・毛利勝永隊と闘い、嫡子・忠脩とともに戦死、次男の忠真が跡を嗣いだが、1617年播磨明石に転封となった。
小笠原氏の後は上野高崎より戸田丹波守康長が七万石で入封、康長・康直二代ののち播磨明石に転封となり、越前大野より松平出羽守直政が入封した。松平直政は天守などに改修を加え、巽附櫓、月見櫓を造営した。松平氏が出雲松江に転封されると、武蔵川越より堀田加賀守正盛が入封、さらに堀田氏が下総佐倉に転封されると。1642年、三河吉田より水野隼人正忠清が入封した。水野氏は六代在城したが、1725年、水野忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こし改易、松本城は一時幕府直轄となった。 1726年、戸田丹波守光慈が志摩鳥羽より入封、九代ののち廃藩置県を迎え廃城となりました。 |
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